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川越の名称
川越の名称
川越は昔は河肥、又は河越とも書けり。養壽院の鐘銘(文応元年)には立派に「河肥庄」といふ文字を用ふ。東鑑文治二年七月二十八日の條にも此字を用ひあり、河肥は本来の文字なるか、否や応かに断定するを得ず、併し一般史家の説く所は古くは河肥にして、それが河時しか転訛して河越となり、更に川越となりしものなりと、八代博士曰く、河に因って肥された土地、而して河肥荘の中心地は上戸辺にして、入間川及越辺川等流れて、肥沃の土地なりしがためならんと説かる。
一体古い地名は其の言葉、即ち音だけが先にありて、後文字を符牒として当てはめたりしものなれば地名の起原を、漢字の字義で解釈せんとずるのは誤りを生じ易し、今二三郷土資料の各書を参考として左に述ぶ。
三芳野名勝図会
「河越の名の起りは、入間河を越ゆるの謂か」
川越地誌(新井政数著)
「本郡川越町、古ハ河肥庄ト記セリ、養壽院文応元年古鐘ノ銘ニ見エタリ、山田郷河肥庄ニテ又、三芳野トモ云フ、古歌ニハ初雁ノ名所ニテ田面ノ沢タノムノ里トヨメタ」以上
多濃武の雁(宝暦三年写本太陽寺盛胤著)
川越大意「抑々当所は国の中央にして、入間郡山田庄三芳野里、川越といへり(以下中略)「三芳野天神縁起」倩神代鷲宮明神太刀と琴とを持て女神男神共に川を渡りなる由緒有るにより所の名とす。(以下略)
右の如く各書によりて多少異なれり。郷土史中の自眉と称せらる、入閥郡誌(安部立郎著)には三ケ條を 挙げて証拠とし、先輩安部氏も此の名称と川越(河肥荘)旧地には、「軽々しき判定を下すべからざるに より今借りに多数説に従ふ」と云へり。新篇武蔵風土記稿には、文応の古鐘は元上戸大広院の鐘として旧地説を説けり。
河越荘の旧地(河肥圧中心地)
河肥荘の中心地が名細村上戸、近辺として、現市川越及其の附近は往古和名抄に出てゐる山田郷なりとせり。郷、庄、里の制は己に漠として、史料に乏しく知るに難し、殊に年代の変遷あり。今入間郡誌の三個の学証を摘録して参考に供す。
一、准后道興の廻国雑記に「河越といへる所にいたり、最勝院といふ山伏の所に一雨夜やどりして、限りあれば、今日分けつくす武蔵野の、境もしるき、河越の里。此所に常楽寺といへる時宗の道場はべる。」
二、右の上戸常楽寺は川越山、と号し、叉三芳野道場と称せらる、而して其西に接して館跡と覚しき地あり、南方的場村(霞ヶ関村)に入、て三芳野塚、初雁塚、初雁池等あり。
三、川越町の養壽院に鐘あり。(鐘銘参照)と刻せり、此新日吉山王宮は上戸村山王社に当り、阿闍梨円慶は山王社別当大広院(今修験を止め上戸氏と称ず社掌たり)の歴代の中に存せりと云ふ。されば一般には此鐘上戸より川越養壽院に移されしものと信ぜらる。然らば河肥の名称、山王の祠と共に上戸村附近に存せしを見るべし。(以上郡誌)
郡誌の説は誠に妥当にして、廻国雑誌(文明年中)は土地の人として、之を見る時には其宿泊里程等に就きて、多少の疑問なきにあらず。
而して現市川越と上戸の距離、僅に一里以内に過ぎず。古の入間川が、少しく東に流れたりとも伝へられをり、川越の西に石原と云ふ地名もあり、現市内には上古時代の遺蹟等少からざると、郷庄時代は、自然の山河を以て境界とせし頃なり。されば山田郷と云ひ、河越庄と云ひ叉三芳野と云ふ、其の地域が相距たれるものにあらざりしならん、後年の河越三十三郷を想起する時、其時代時代によりて、単に其の名称を異にせしものにあらざりしか、武蔵野を広義に解すれば、伊勢物語等にある三芳野の里の雅事や、ありし昔など偲ばれて、床しく覚ゆるなり。