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石器時代と古墳時代
石器時代と古墳時代
石器時代の遺物は川越よりも多く発見出土し、現在川越図書館郷土資料室に収蔵せる石器及土器のみにても数千点に及ベり。 此等は主として川越市を中心に、其附近一帯より故安部立郎氏等同志の努力によって蒐集せられたるものにして、近時斯界の研究大に進展し、武蔵野郷土資料として、考古学上重要視さるゝに至れり。 而して叉原始時代を物語る古墳も市内に現存するもの十幾塚に及び、入間郡内等には屈指の前方後円の大古墳もありて、考古学上、上代文化との交渉を持てる土地として、川越は興味ある所なり。
鳥居龍蔵博士の武蔵野に「現今の川越を中心として、其附近は有史以前(石器時代)の当時から、すでにアイヌは広く分布して居りました。此処に居った彼等は先史人類学上から云ふと厚手土器派の者であります。更に吾人の祖先もアイヌの有史以前の中期又は後期に此処に来たらしい。即ち吾人の祖先も其有史以前にはすでに此の地方に来て久しくアイヌと接接しました。而して最後の勝利は遂に吾人祖先に帰し、斯くして彼等は長く此処に住居することゝなりました。」
広漠たる平野の武蔵野が有史以前に、現今の東京湾は此辺に迄入込み居りしものか、川越の東南にかゝる関係を立証するが如き多くの史蹟、地名等を存せり。市内小仙波の東に貝塚といふ地名あり、南方にかけて、白砂化せる貝殼の化土を畑中より出すことあり、喜多院の七不思議の一たる仙芳道人の伝説は、海に関係するものあり、仙波の地名の如きも、古代の地勢を偲ばるゝなり。而して石器時代の遺物が仙波方而より東南の丘に多く、高階方面より弥生式に属する石器土器の出土するが如き、叉仙波弁天池附近の丘地より、アイヌ式の外にウス手の土器等を発見するも、石器時代より先住民族の聚落として住居せるもの少からざりしを思はるゝなり。隨つて市内にも相当遺蹟遺物ありしならんも、市街地の発展に件ひていつしか失せしなるベく、川越城外及宮下町等より、今に尚厚手式土器石器等を発見することなきにあらず。
市内神明町に在る神明宮の神体は石棒なり(三芳野名勝図絵)叉養壽院の歴住の墓標中に此の時代の石棒を用ひたるものあり。此の養壽院の墓標に用ひられてゐる石棒が、此地の塚の辺より出土せりと云ふこと古書に散見し、叉石質が秩父産の緑泥片岩たることも、寔に土地と由緒因縁を有し頗る面白きことなりと思ふ。
上古の武蔵には、知々夫(秩父)、尤邪志(武蔵)の国造を置かれ、前者は人皇第十代崇神天皇、後者は第十三代成務天皇の御宇なり、叉多摩郡地方を胸剌と称せりと云ふ。後年に武蔵一国となって府中に国府を設け、国司を置きて王朝時代の治制を見るに至れり。
抑上古の遺蹟として、古墳神社仏閣等は、最も注目すベきものなるが、川越は入間郡中古墳分布上大に注目さるベき所なるも、今日市街地となりてより、古墳の形状殆んど旧態を逸せしは遺憾なり、併し古書或は詩歌、伝説等により、其の俤を追想するを得ベし。築城以前に荒野を開ける、六塚稲荷社の伝説の如き、叉遺物の発見出土を記載せる三芳野名所図絵の如き、叉最近小仙波山王社の附近に於て、市道開墾工事中図らず発掘したる、埴軸、曲玉、管玉、刀類に見るも、此地方は古代の古墳の群地たりし事明かなり、仙波喜多院慈恵堂(慈眼大師墓所)の墳、愛宕社浅間塚等は古墳として特筆すべく、鳥居龍蔵博士の武蔵野雑誌に「同地(川越)を中心として、此処に其の時代の古墳が多く存在して居ります。殊に喜多院の境内には大きな立派な前方後円式古墳がありますが、這は入間郡及ひ其附近の古墳中最も注目すべき物でありませう。」と述べられ、尚鳥居博士は本郡中、古墳の布群を凡そニヶ所として、甲を川越及び其の附近とし、乙は狭山丘陵り附近を中心とせり。
要するに川越は郡内にても、原始時代及王朝時代の遺蹟史蹟等の多き土地にして、当時此辺一帯が早くより開けて、相当地位ある王族豪族等が住居せしが如く、古墳の現存は此の事を如実に物語るものといふベし。
王朝時代に延喜式々内神社の内、入間郡に五座ありて、川越の氷川社と思はるゝものもあり、叉入間郡の中に八郷あり、麻羽郷、大家郷、郡家郷、高階郷、安刀郷、山田郷、広瀬郷、余戸郷、ありて山田郷が現今の川越地方なりしと云ふ。河越荘の川越は昔山田庄を称せしことあり、万葉集に小山田云々等叉市外北方に山田村あるも注意すベき史料たり。而して武蔵が天化改新の頃には東山道に属せしものにして、後光仁天皇の宝亀二年に至って改めて東海道に属せり、武家時代に川越の西に府中より南高麗に出で川角等を通りて、上毛に至る古街道(鎌倉街道)ありしはこれも注意すベきことにして、後年に戦地となるや隨って川越附近にも街道との交渉自然多くなりて、道路も出来たりしなり、此の武家時代に入間郡を入間川によりて二分し、入西、入東の二郡を唱へしことあり、古文書には、仙波地方を徳川の初期頃迄入東郡と記せるものあり。
上述の如く、先史時代原始時代王朝時代等に亘りて、悉く川越及び此の地方は、歴史上種々の関係を有せしを以て神社仏閣の如きも早くより発達せり、川越城内にある三芳野神社(県社)は大同年間の創立と云ひ、後に武蔵国造、菅原修成が背公を祀りて、三芳野郷十七ヶ村の元郷社なりしと云ひ伝ふ。宮下町にある氷川神社(県社)は人皇三十代欽明天皇の御宇の勧請なりと云ひ、延喜式内にある入間郡五座の内国渭地祗神社か、或は出雲伊波比神社が、川越氷川神社に合祀せられたるなりとあり。武家時代に寺院内或は地方豪族が祖神乃至其帰依する持仏を祀りて崇敬し、其領内人民の信仰を繋ぎてよく徳治に心を用ひたるものなり。河越氏の勧請したる、日吉社等は即ちこれなり。
寺院にありても、奈良朝時代既に国分寺を置かれしと同時代に仏閣の創建を見たりしなるベし。市外の各村には其院趾とも見るベき当時の古瓦、礎石等を出土せる所あり、仙波喜多院(無量壽寺)の如きは天長年間、慈覚大師の創建と伝へられ、天台宗屈指の霊刹たり。中興の傑僧として、尊海、天海の二大僧正を得て、中院(仏地院)南院等を立て、星野山内寺坊多く、頗る隆盛を極めたり。而して又、東明寺、蓮馨寺、養壽院等皆夫々古き歴史と由緒とを有し、ために名僧或は傑出せる人物も少からず輩出せり。想ふに単に川越のみならず、武蔵野の地方文化の発展は、社寺を創建し、宗教の力によりたるもの尠しとせず。その院趾遺趾地名等によりて、当時の盛況を追想するを得。星野山喜多院、県社三芳野神社、氷川神社、川越城趾其他各社寺等、名勝地として存するもの即ちこれなり。