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伊勢物語と三芳野の里
伊勢物語と三芳野の里
川越地方は詩歌によりて彩らる、名勝地少からず万葉集に「伊利磨路乃云々」あり、平安朝初期の「伊勢物語」はよく此の三芳野の里を寫せるを見る。
伊勢物語「昔、男、武蔵国まで徨ひ歩きけり。さて其の国にある女をよばひけり。父はこと人にあはせんといひけるを、母なんあてなる人にも、心つけたりける。父はたゞ人にて母なん藤原なりける。さてなんあてなる人にと思ひける。
此のむこがねに詠みておこせたりける。住む処なん入間の郡みよし野の里なりける。
みよし野の田面の雁も一向に君が方にぞよると鳴くなる。
むこがね返し、 吾が方によると鳴くなる三芳野の田面の雁を何時か忘れん
となん、ひとの国にても、なほ斯ることなん止まざりける。
みよし野の地名が既に此の物語に出でしを、見ると延喜以前已に存在せし古るき地名にして、大化の詔及其の後代の令式の法によると「凡五十戸為レ里」とあり、従ってみよし野の里は其名の如く小聚落の清雅なる土地にて、「母なん藤原なりける」を見ても当時藤原氏全盛時代の荘園の面影を偲ばれ、茲に相当の豪族住みて歌よむ人もありしならん。鳥居博士の「武蔵野」に
当時川越附近はみよし野の里を中心として、極めて藤原氏時代式の文化が発達して居った所で有福長者なども相当に住んで居った様に思はれ ます(以下略)
川越、三芳野神社の高丘より、東南の美しき水田や伊佐沼或は多濃武の里等、社後の初雁の杉等さまざま古伝説も想像され、美しき此の地帯が自然に丘と水とに調和せるを思はすベし。実に川越及其の附近は「和名抄」による山田郷にして、叉伊勢物語にある三芳野の里なるベし。
山田郷と云ふは「延喜式」に「諸国郡郷里名。並用二字必取嘉名」とあり、二字装より成りしならんといふ。山田は丘陵にして、低き水田の存在するもの這は平野と水地との、みよし野の地形が自然的の地名を呼ばしめたりしものか、後年迄、山田郷を称するもの三、山田庄と称するもの五十六あり、三芳野里と称する地名三十八、河越荘及随所に川越三十三郷と称する処あり、武蔵風土記稿によると、三芳野郷と称するもの入間郡に十三、高麗郡に十、合計二十三あり。概要を記して後人の示教を待つ。