川越藩

川越藩

川越城は後北条対両上杉の決戦の地となり、天文両度の役有名なる川越夜戦に於て上杉氏は大敗し、 小田原北条氏の手に保有せらるゝこと四代五十三年、 天文十五年より四十五年間、 其の間小田原北条氏に属し、城将として北条綱成、大導寺政繁、同直繁、同直宗等在城したりしものゝ如く、綱成及政繁等河越三十三郷に於て戦後神社仏閣の復与領内へ善政を布く等、大に見るべきものありしが、天正十八年豊臣秀吉の開東諸城を攻略するに及び、小田原落城となり、直宗は山道口の応援として上州松枝城にありしが、松枝開城し直宗降るに及んで、河越の部下亦之に従って降り、関東は豊臣氏の領有となりたり。当時川城蓮馨寺に下附せる豊臣秀吉の朱印状あり

禁制
武州河越
蓮馨寺
同門前
見立寺
一、軍勢甲火等濫妨狼籍事
一、放火事
一、対地下人百姓非分之儀申懸事
右条々堅今停止請答於違犯之輩者忽可被處厳科者也
天正十八年五月 日(朱印)

徳川時代の川越藩

天正十八年八月、徳川家康関東一円を領有し、江戸城に移るに及びて、酒井河内守重忠に川越城を賜ふ。領高一万石、当時幕府は川越城地を軍事上に地理的に将又政策上にも重要の所となせしものゝ如く、常に川越城主には徳川家一門、若しくは譜代大名の重臣閣老の位置を占ひる人物等を起用せり。従って川越城主の多くは幕政の枢機に参ずるの英主にして、幕政時代の権勢家たり。而して其の藩臣中にも人才ありしかば、川越藩の治政は他藩の模範となり、大に治績を挙げたり。従ひて領民の如きも自ら人情温厚となり、茲に極めて平和なる自治の発達を見るを得たりしものなり。