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坂東武士
坂東武士
坂東武士の強勇については、已に古今の典籍に載する所、古く奈良朝時代には防人として東国の武人を 探用したりき。
「続日本紀称徳天皇」神護景雲三年の詔に曰く
朕(聖武天皇)我東八爾授刀天侍之牟留事波汝(称徳天皇)乃近護止之天近護興止念天奈毛在是東人波常爾云久額爾方箭波立止毛背政箭波不立止云天君平一心乎以天護物曾此心知天汝都可弊止勅比之御命平不忘此状悟。天諸東国乃人等謹之麻利奉侍礼。
と此の如くにして、東国武士は王朝時初期より禁兵として徴発せられ、九州辺要の諸国を鎮衛する防人となり、或は禁裏(皇城)を守る衛士となりたり。東国人の気質由来義を尚び、事ある際には邁往勇進、額に箭は立つとも背には立てじと、以来その勇壮は坂東武士の誇とする所なりき。
万葉集に
天皇の遠つ御門と、不知火の筑紫の国は、寇まもるおさへの城ぞと聞食す、四方の国には、人沢に満ちてはあれど、鳥が鳴く東男子は、いでむかひかへりみせずして、勇みたる猛き軍とねぎ給ひ云々。
万葉集第二士に武蔵の防人の歌士二首あり(その内の一)
於保伎美乃、美己等可之古美、宇都久之気、麻古我天波奈礼、之末豆多比由久(秩父郡大伴部少歳)
天平二年に至り、諸国の防人を停められて、東国のみより徴発せらる。以来幾度か変遷ありしも、防人の職が東国武士の専有となり、防人の勇往邁進の気象は、実に後世の鎌倉武士(武蔵武土)の興起に偉大なる感化を及ぼしたるものゝ如し。
大伴家持の歌に
海ゆかばみつくかばね、山行かば草むすかばね、大君のへにこそしなめ、かへりみはせじ、ますらをのこころおもはゆ、おほぎみのみことのさきをきけばたふ。