武蔵七党

武蔵七党

横山党。猪俣党。野輿党。村山党。西党。兄玉党。丹党。

由来武蔵は武士道の本源地として、「武相の兵は天下に敵なし」と称され、関東武士の剛勇を賞讃せり。県誌に曰く

「武蔵は大国にして権門の荘園更に散在せしかば、その領家の命を受けて荘務を管する者即ち荘司多く来住せしなるベく、また官牧ありしためその別当も赴住し来り、やがて土著して何れも一方に門戸を張り、覇を称する有様となれり。これ等の者の中に特に有名なるがすなはち武蔵七党なりき。」

既記の如く、武蔵は王朝時代の後半より、源平両氏の馳躯場とはなれり。

武蔵の牧(馬城)大宝令の制、諸国に牧場を置かれしより、武蔵にも御牧を置かれたりき。御牧の官人には、牧監と別当とあり。武蔵に置かれしは別当にして、彼の小山田別当有重、長井斉藤別常実盛の如き土豪を以て別当に任せられしものあり。又秩父庄司別常重能(帛山氏)等あり。国司は各御牧に産する馬を集め、其の中より良駿を選みて京都に送りき。武蔵野の駒引これなり。而して武蔵の貢馬は延喜式に依れば、定数五十疋なりき。隨つて当時名馬を河越地方に於て産出せるものゝ如く、現在附近に馬室、馬宮遊馬等の地名もあり、当時各書にあるうち、河越馬の関係あるものを二三記せば平家物語に河越小太郎重房、院の御馬河越黒などゝ見え。盛衰記に河越重頼、知盛の馬河越鹿毛等弓馬の術に秀でたる武蔵武土と河蔵の牧の駿馬とを想起する時寔に興の深きを覚ゆ。