重頼の子孫

重頼の子孫

重頼の亡後、所領は一旦悉く没収せられしが、其の夫人は頼朝の恩人比企禅尼の女にして、又頼家の乳母たりし関係上、他の五ヶ郷を除き、河肥庄は重頼の妻(後家の尼)に賜りて世々所領となりぬ。

武蔵武士に曰く

重頼に三子あり、皆鎌倉幕府に仕ふ、長は小太郎重房と云ふ、父と共に義経に従ひて所々に戦ひ勲功を建つ。二子は二郎重時と云ふ、承久元年七月頼経将軍京都より関東下向の時、後陣の随兵たり。三男は三郎重員と云ふ。承久の役に功ありしかば、後に武蔵国留守所総検校職(国司代理)となれり。寛喜三年四月、検校職四箇の掌事を復するを請ひて之を免されぬ。貞永元年十二月重員武蔵国総検校職、国検の時の事書、国中文書の加判、及び机催促加判等を其の子修理亮重資に譲与せり。幕府依りて之を重資に安堵せしむ。爾来子孫相承け、文応の頃に経重ありし事は、川越市養壽院にある山王社の鐘銘(国宝)にても知らるゝなり。其の後室町時代に至り平一揆として川越に拠り、鎌倉の足利基氏、氏満等に抗せしは多くはこの一族ならん。

東鑑建長三年五月に河越四郎経重の名みゆ。後に掃部助と称し、叉遠江権守と称す。東鑑には文永三年経重の名見えたる後は河越氏の事全く見えず。市内養壽院に河越氏の廟所と云ひ伝へらるゝ小墳ありて其の傍に大樅樹及び二三の板碑あり。寺伝に依れば、同院は経重の開創になり、其の曽祖父たる重頼の法名養壽院殿青龍経公大禅定門の位牌を安置す。嗚呼英魂茲に幾百星霜、武蔵武士としての河越氏の功名は永遠に不朽ならん。

蕪村の俳句に「雉子鳴くや、草の武蔵の八平氏」と其の昔、良文の子孫繁茂し、坂東八平氏の豪族となりて、互に武威を競ひ、荒野を治め、己の領地を増殖したり。良文に拮抗して互に雄を競ひたる北足立郡箕田村に箕田源二氏あり、渡辺綱の如き勇者を出せり。此の外に武蔵七党あり。