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皇室御領と河越之庄時代
皇室御領と河越之庄時代
川越は、鎌倉時代には、後自河天皇の皇室御領なりき。 当時河越之庄(河越荘)は、武蔵国で頗る優秀の地位を占めた。 請所の荘園なり。 その御領の範園、地域何程なりしか、今史料の考証すべきものなく、遺憾なるも、地形に仍つて想像すれば、現市は河肥の庄の内にして、当時庄の中心地は上戸地方(日吉社)山王原附近なりしは明かなり。
河肥之庄が皇室御領なりしと云ふこと、寔に郷土の光栄たり。天皇英邁にして、夙に信仰の心篤くましまし、常に日吉社と熊野権現とを崇敬せられ、離宮たる法住殿(京都鴨川)の内に持仏堂、蓮華王院を建てられ、総鎮守として近江国坂本より日古社を分祀し、河肥之庄の一部を寄進して、社領に献じたまふ。これが新日吉社領にして、鎌倉幕府の記録たる「吾妻鑑」文治二年八月五日の條に、新日吉社領、武蔵国河肥之庄と見ゆ。叉天皇の御領には多くは此の二社を勧請して祀れり。川越、養壽院の銅鐘(国有)の銘以て証するに足らん。銘に曰く
武蔵国河肥庄
新日吉山王宮
奉鋳推鐘一口長三尺五寸
大檀那平朝臣経重
大勧進阿闍梨円慶
文応元年大歳庚申 十一月廿二日
鋳師 丹治久友
大江真重
此の鐘は郷土史料として、最も貴重なるものゝ一にして、当時河肥庄の荘司たる河越氏が郷内の総鎮守として、新日吉山王社を祀りて崇敬し、文応元年に河越重頼の曾孫、平朝臣経重が奉鋳したりしものなり。
備考
市外名細村大字上戸、山王原 | 日枝神社 |
川越市小仙波 | 日枝神社 |
川越市養壽院内 | 日吉山王社 |
市外今成 | 熊野神社 |
川越市仙波岸町 | 熊野神社 |
川越市松郷連雀町 | 熊野神社 |
日吉、熊野の二社は以上の数社あり。総て荘園、或は皇室御領内には、神社、仏閣その中心となり居るが如く、河肥の荘も亦然り。この鐘の伝説によれば、上戸山王様の別当大広院の所有なりしと謂ふ。上戸、川越の二説は尚後日の研究に待たん。
河肥之荘の沿革大略
河肥荘は後自河天皇の御領より新日吉社領となり、建久三年三月十三日天皇崩御後、全部を後鳥羽天皇に譲りたまひしに、承久の乱後此の皇室御領も、遂に関東方の為めに没収せられたり。然るに後堀河天皇御即位後、御父、後高倉院に皇室御領を献上せらる。よりて河肥荘は再び後高倉院の御領となり、式乾門院に伝へられ、後堀河天皇の第一皇女室町院領となれり。
これより後亀山天皇の御領となり、後字多天皇を経て、後醍醐天皇に伝へられたり。
後醍醐天皇は英邁の資を以て、関東討伐の兵を挙げさせられし時、新田義貞と協力して逸早く鎌倉に打入りたりし武士は、天皇の御領土たる河肥荘の河越氏なりき。正平二十三年小山田入道と三浦下野入道と連合して、勤王の為に平一揆の兵を起して河肥荘に拠り、吉野朝の為に忠義を盡したる関東の八平氏の一たる河越氏が、不幸にして河越城と倶に大敗し、一族盡く戦場の露と散りたりしは当時を想起して転た流沸を禁ずる能はざるなり。
河越庄は一たび皇室御領となりて発展せしが、後河越氏の勃興となり、南北朝時代には、御領内の武士は悉く吉野朝のために武功を顕し勤王のために力を盡せり。川越地方が皇室御領として関東に格別の光輝を有し、早くより京都と連繋をとり、文化の中心地たりしが、一朝大変に際して我等の郷祖たる領民若くは武蔵武士の大部分が、南朝方として勤王につとめ、忠勇一轍に従軍せし所以のものは、後醍醐天皇の御領たりし関係によるなるべし。古戦場や各寺趾等に今猶武蔵武士の英魂を祀つた秩父石(緑泥片岩)を以て作りたる板碑を見る時「千古英雄只断碑」の古句を連想せざるを得ず。