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川越築城の原因
川越築城の原因
永享の乱後、宝徳元年足利持氏の子成氏(永壽王)年纔に十三歳にして関東公方(管領)となりしが、 其の後山内上杉、扇ケ谷上杉両氏の間に内訌起り、遂に戦争となれり、 成氏は古河城に在り。 将軍義政は命を下して、両上杉に成氏を討たしめしが、両上杉はそれぞれ軍備を整へて対策を講ぜり。山内上杉は上州平井に、扇ケ谷上杉は武州川越に本拠を置きたりしがこれより関東諸城の築城を促し、川越城又築城せられたり。当時将軍は伊豆堀越に足利政知を置き、之を堀越公方(又は御所)と称して、古河公方にあたらしめ、上杉氏を援けしめたり。鎌倉に関東探題として渋川義鏡を置き、又山内上杉には名臣長尾氏あり、扇ヶ谷上杉には名臣太田氏あり。各々其の軍備に怠りなかりき。これより関東は永く戦乱の巷とはなりぬ。