川越城に於ける上杉氏

川越城に於ける上杉氏

川越城を築城し、之を本拠となしたりし上杉持朝は、当時関東に於ける勢力甚だ優越なりしが、 上州平井の上杉氏(山ノ内)等他の四家に比較して、其の所領甚だ少かりしも、 勢力ありし為め同族の譏に依り、鎌倉幕府より一時大に疑はれしことあり。然るに其の子定正幕府に向ひて諒解を求めし為め、容易にその疑も解けて持朝は一層信頼され、其の手軍の兵糧所として、河越荘の所領を賜はりたり「足利家御書案文書に」

武州河越荘之事、預置候、可有知行也
寛正三年十二月七日
上杉修理太夫入道殿

とあって、此の外に、二三の所領を特に其の兵糧所として加増されたり。要するに、古河成氏に対抗せしむる為めに持朝を重用せるものにして、其の戦功をも賞し、管領として幕府の代表的の人物たりと認めたるものなり。従ひて、長禄元年の築城より六年の後、寛正三年十二月七日、河越荘の土地城地共に上杉持朝の所領となれり。斯くして持朝は、川越城を維持するに足る資財備りて益々軍兵を養成し、勢力を張るに至れり。応仁元年九月六日、持朝は河越城に於て逝去せしかば、其の孫政真城主となりたり。政真は持朝の長子顕房の子にして、顕房は持朝に先立って分倍河原の戦争に戦死せしかば、孫たる政真城主となり、顕房の弟(持朝の二子)定正後見役となりて政務を取れり。偶々文明五年十一月政真は武蔵榛沢郡五十子砦に成氏と戦ひて戦死す。当時城代は曾我兵庫助なりしと、政真卒するや、定正遂に川越城主となる。定正は文武に秀で、其の子朝良のために教訓状を書きたり。其の教訓状は、定正長状と云ひて後世武士の教科書として世に伝へらる。而して上杉顕定(山内上杉)と屡々戦ひて、菅谷及高見ヶ原等の戦ひには勝利を得たるも、不幸にも他の讒言を信じて、其名臣太田道灌を相模国粕谷にて誅す。以来家臣の動揺あり。戦は利あらずして勢力やゝ衰へたり。明応二年十月相州大場城に於て卒す。敵の離間策に陥り扇谷代々の重臣たる太田道灌を殺せるが如きは、寔に惜しみても余りあることならずや。

定正の死後、其の嗣子朝良川越城主となる。茲に注意すベきは扇谷上杉氏川越築城の甫めには、古河公方たる成氏に対抗して戦ひしが、其の後同族たる山内上杉と内訌を生じて相争ふや古河成氏と和睦して、其の援助を仰ぎ、又伊豆の北条早雲を頼みて、山内上杉顕定と戦へり。これは山内上杉の勢力に対し扇谷上杉の勢力の弱かりしにや。通鑑には、定正が顕定と荒川を隔てゝ南北に対陣せしが、定正は荒川を超えんとして誤って馬より墜ち溺死せりとあり。

これ渡辺博士の講演に由る(歴史上に於ける川越の地位)が、此の事の記載は通鑑のみにて、史家にとりては興味ある研究史料たり。

朝良川越城主となるや、古河公方、足利成氏は定正の時代と異なり、朝良の敵たる顕定(山内上杉)と協力、朝良に対抗する形勢となれり、是に於て朝良は永正元年九月北条早雲及駿河の今川氏親に援けを請ふ。顕定は上州平井を中心として鉢形城により、武蔵街道を経て、上戸に進み陣所(仮城)を設けて常に川越城に対抗せり。北条早雲は朝良を援くる為めに、相模街道より武蔵の方に進軍す。上戸に陣せし顕定は之を打破る可く、多摩川河原に出兵して、立川原の戦争となり、朝良及早雲と戦ひしが顕定却って敗れたり。而して顕定は本家たる越後の上杉房能に援兵を乞ふ。永正二年三月十日再び攻めたり。

朝良は川越城に籠城したりしが、数ヶ月後遂に支へられずして、顕定と和睦を結びて、扇谷上杉氏は江戸城に行くことゝなり、斯くて一段落を告げたりき。然るに偶々茲に意外の強敵を生じたり。それは両上杉氏久しく互に争ひ居たるため、其の勢力次第に衰へしに、突如北条氏(早雲)の新興勢力武蔵に及びたりしことこれなり。是に於て江戸城にありし扇谷上杉朝興(朝良の養子)は、山内上杉家と相謀りて、再び河越城に帰城したり。これより両上杉氏対北条氏の交戦を見るに至れり。当時群雄割拠の戦国時代とて一勝一敗は直ちに興亡盛衰に関係あり。かくして扇谷上杉家は天文両度の役に敗戦して遂に滅びたりしは、寔に同情に堪へざる所なり。(武蔵野、川越号に依る)