北条氏(後北条)時代

北条氏(後北条)時代

古河、堀越両公方及両上杉等互に戦を事とし、遂に疲弊困憊何れも関東の大局を鎮むるの勢力を失ひし時、 北条早雲伊豆より起りて、風雲に乗じて小田原城を占領し、更に武蔵に侵略して、関東一円を領するに至れり。

大永四年四月、早雲の子氏綱は、江戸城にある太田氏と相策応して、上杉朝興を攻めたり。朝興戦利あらずして江戸を捨て川越城に走れり。朝興深く之を慚ぢ、幾度か北条勢と多摩河沿岸に戦ひしも、またも敗績し、天文六年四月恨を残して川越城に病死せり。其の子朝定十三才にして城主となり、父の遺言を守り、宿敵北条氏を攻めんとせしに、叔父朝成も之を扶け深大寺の古城を修築し、将に小田原に攻入らんとせり。然るに北条氏綱早くも之を聞き、機先を制して川越を略せむとし、天文六年七月大兵を引卒して武蔵に入り、川越の西南約五十町なる三ッ木原(堀兼村)に押寄せたり。茲に両軍の激戦となりしが、上杉方遂に敗北して朝成は虜にせられ、余衆は散じ川越城に逃れ還りしも、氏綱進みて川越城を園みしかば、朝定守ること能はずして松山城に逃れ、北条氏は川越城を占領したり。

松山城には上杉の勇将難波田弾正の父子ありて、よく応戦せしかば、氏綱俄に城を抜くこと能はさるを察し、軍を返して小田原城に帰れり。而して川越城に勇将北条綱成(黄八幡)を留めて守らしむ。こゝに上杉氏六代の居城たる川越城も遂に北条氏の有となれり。

三芳野名所図絵に難波田弾正と北条方の山中主膳の図ありて、
「天文六年七月十五日河越の舘破れて、主将朝定松山の城に入る。同月十八日北条氏綱数万の兵を率して松山に寄ると聞えければ、城主(松山)難波田弾正半途迄出で防戦すといへども、利なくして松山に引入らんとする時、北条方の士山中主膳、弾正を追ひかけて、
○あしからし、よかれとてこそ、たゝかはめ、何か難波のうらくつれゆく。
と俳諧体の歌をよみかけしに難波田も名ある勇士なれば駒のかしらを引かへして
○君をおきて、あたし心を、われもたば、末の松山波もこえなん。

古今集の歌を取あえず答へしは、主将朝定を松山に置いて、我此処にて討死せば、末の松山、波こゆべしとの心にて当意即妙懸引知れる勇者なりと感ぜぬ者はなかりける。(図絵)

川越夜軍(天文十五年之役)

川越夜軍或は東明寺口合戦とも云ふ。此の戦は軍事上に極めて興味ある戦にして、扇谷上杉、山内上杉古河公方の三連合軍の八万余騎を以て川越城を囲み城将たる北条編成はよく籠城して之を支へ、而して、援軍たる北条氏康の奇策は成功して、弁千代を包囲せられたる川越城に遣はし密計を約して八万の敵軍に対して僅に八千余騎の手兵にて夜襲をなし大勝したる戦なり。是に関しては河越記等各書にあれ共、今は埼玉県誌の沿革より抄寫して左に掲ぐ。

県誌

「天文十五年四月こゝに両上杉、北条氏の雌雄を決すベき川越戦役起れり。川越は地勢一帯平坦にして、西方南方は遠く入間の平野に連接し、東面は水田萬頃荒川沿岸の低地をなせり。其の城は平地の一点僅に数尺の丘陵上に設けられ、所謂「平城」なれども、上杉持朝以来扇谷家の拠城として有名なりし所なり。而して北条氏之を占領するや、その位置最も上杉氏に対する重鎮たるを以て、部下剛勇の誉ある北条綱成をして之を守らしめたり。両上杉氏は連盟既に成れるを以て、全力を注ぎて武蔵上野その他関東諸州の兵を募り、その数八万と称する大軍を以て川越を囲み南方約一里なる砂久保に陣せり。かゝる中古河の晴氏また出陣せしかば、川越はいよいよ重囲中に陥りしも、城将綱成固く守りて数月の間なほ抜くを能はざりき。この時小田原にては氏綱既に死し(天文十年)子氏康立ちしが、最も将略あり。川越の急を知るや、直ちに今川氏に対すろ背後の備をなし、天文十五年四月手兵八千を率ゐて自ら武蔵に進み、上杉氏に対陣せり。

「氏康は上杉氏の陣を突撃する前に砂久保の南方福原村今福の辺に陣したるが如し。口碑に同地下松原の中今に「陣場跡」と称するは氏康の陣所なりといふ。慶安四年の同村開墾地図を見るに陣場の称記入あり」

氏康は先づ密使綱成の弟弁千代を城中に遣りて、内外攻撃の約を定め、四月二十日の夜、月もやうやう出る頃、わざと松明を持たず、鑓しるしを付け相言葉を定め、大導寺、印浪、荒川諏方、橋本等を初め、氏康が将士砂窪へ切って入り、左右に散じて戦ふ程に、上杉が勢打負け憲政の旗下、小野幡州、本間江州、倉賀野三河守等討死し、難波田弾正も奮戦し遂に燈明寺(東明寺)口の古井に落ちて死せり。弾正が子隼人佐を始め、三千余人討死し、憲政は辛うじて上州平井に逃れたり。

城中よりは、綱成木戸を開いて突出し、晴氏に当りしかば、古河勢大に敗れて退軍し、扇谷家の朝定は遂に戦死せり。北条氏康の夜襲は一挙にして成功し、敵の大兵皆破れ、川越の囲解けしかば長駆して松山城を攻め、また之を陥れたり。是に於て扇谷家亡び、山内、古河の両家は辛うじてその居城に拠りしも大勢殆ど決し、両家の運命もまた将に久しきを得ざらむとす」

かくの如くにして、天文十五年の川越夜軍は北条方が大勝して、扇ヶ家上杉家が敗北となった。当時は河越市街、殊に札の辻より東明寺附近にかけて大激戦ありしと伝ふ。小仙波の東方に俗称「南畑陣」といふ小字あり。難波田弾正の駐陣の所と云ひ伝ふ。又新宿町の西(鎌倉古道の附近)に寺屋敷と呼ぶ畑地あり、此所は昔善仲寺のありし所なるが、此の戦にて兵火にかゝりて焦土と化したりと云ふ。東明寺合戦と云ふが如く、川越市内の多くの寺院神社等は此の役に大半焼失したり。いかに夜襲の激戦なりしかを察するに足らん。東明寺の北に塚あり。これは此の役の戦死者を弔ふ塚なり。各種の文書にも、下町辺に首塚があり宝永年間にも又は後年にも、武器髑髏等夥しく発掘されしこと伝へらる。

川越大戦後、諸城多くは戦はずして北条氏に降れり関東に北条氏の武名揚るや、上杉氏の部下も又風を望んで降り、遂に北条氏は開東を領有するに至れり。是に於て氏康は小田原に帰城して、川越城には大導寺駿河守政繁を留めて城将となしぬ。これより川越地方は北条氏の統制を受くるに至れり。

上杉氏川越城主なること六代八十一年間、次に北条氏(後北条)は天文六年より四代五十三年、次に天文十五年(川越夜軍)より北条氏の治下四十五年間(城主年表参照)其の大半は殆んど交戦中なりしかど、大導寺氏城将となるに及び、二代相嗣ぎてよく川越地方の復興につとめて治績を挙げたり。現今に至りても其の関係史料たる古文書若干を蔵する旧家あり。今は唯だ戦史の概界を記すに止めたり。

北條氏(後北条)系図

氏綱及氏康の時に川越城を領し、城主及城代として綱成及大導寺政繁等を置く、城主は北条氏なり。