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旧城の概要
旧城の概要
川越城の本丸は中央より稍々東南部に位し、方二町ばかりの所にして、本城の一部及大玄関等現存す。 昔は本丸の南北に二門あり、南を天神門と称し、北を北門と云ふ。 外に玄関前東入口に一ノ門あり(初雁門と称せしと云ひ伝ふ) 本丸前に巴形の空堀あり(現今畑地)土塁の丘に初雁の杉(枯木)及北東に「なんじやもんじや木」及山林あり。本丸内に三芳野天神社あり。歴代城主の崇敬厚かりき。本丸の北には二ノ廓あり。共に城主の館なり。
ニノ丸(ニノ廓)の東西にニノ門あり。東を蓮池門と云ふ。(霧吹井此の辺にありしと云ふ)西をニノ門と云ふ。ニノ丸の内に武器蔵及番所、武具方役所文庫蔵等あり。本丸と共に各廓を通じて番所及び小なる境門、通用門ありき。
ニノ丸の内に薬師門あり、世俗に四足門と云ふ。是はひととせ、東都紅葉山薬師堂総門のよし(多濃武の雁に依る)
富士見櫓及虎櫓
本丸の塁上二佃所に櫓あり。其の西北にあるを虎櫓と云ひ、西南にあるを富士見櫓と呼ぶ。虎櫓は現今はなきも、富士見櫓跡には現に望嶽台と称して御岳祠を祭り、土塁の旧状をなせり。下の水堀は蓮池となりて尚旧観を失はず。寔に史蹟として永く保存されたきものなり。ニノ丸の東北隅に菱櫓ありしが、現今その塁形を失ふ。此の辺は一度川越公園となりしことありしが、現今は商業学校の敷地となれり。
三ノ丸(三ノ廓)
本丸の西に位して門あり。三ノ丸と称し、西の大手門より入りて中門に至り、二度曲つて此の門に至る。三ノ廓にも居館あり、番所長屋等あり、前に馬場あり又厩舎あり。現今の中学校々庭運動場は馬場及馬見所の跡なり。此の西南の方に監蔵あり。三ノ丸の内に八幡曲輪(古の八幡宮趾)と呼ぶ所あり(三ノ門の南)此所は昔会所、郡代所、衆判所ありて、各其の通用門ありて行政を司りし所なり。
衆判所は各参政及町年寄大惣代等の役向の公務を取りし所にして、此の角に太鼓櫓ありたり。
三ノ丸の外曲輪にして、此の会所等(三役所)の両側は大抵家老屋敷を設く。南端に南大手門ありて、松平大和守時代には国家老小河原斎宮(二千六百石)の屋敷あり。現今の川越尋常商等小学校の所在地なり。北側の太鼓櫓向ひの屋敷は、沼川杢(元老職)の屋敷なりき。(沼田氏は弘法大師の後裔なりと云ふ)
外曲輪の西に西の大手門あり。大手門の西側は土塁を設け、鉄砲用の「ハザマ」窓の塀あり。其の門前に三ヶ月堀を作り、丸馬出しを設く。南の大手門も同じ。これらは総て松平信綱侯城主の時の築造なり。西ノ大手趾は現今の川越市役所の所任地にして、此の通りを大手前と称せり。
西ノ大手を入る南側も多くは家老屋敷にして、松平大和守在城の頃は、多賀谷、自井、根村、門谷、吉田、下川諸氏の邸宅なりき。第一尋常小学校及川越会館の辺は、秋元侯在城の頃は名家老、岩田彦助和衷の邸宅たり。
新曲輸(本丸の東)
松平伊豆守信綱侯の時に新添の曲輸(土塁)なるを以て此の称あり。氷川下より城中に入る所に新廓門ありて、東南に亘つて十数箇の御米蔵あり。火薬蔵二ヶ所、役所、桜ノ馬場もあり。此の廓は東の備にして、天神下より清水門に至る(杉下)
田曲輪
これは南大手門の東に在る土塁にて、本丸の南に当れり。各郷米蔵及役所あり。東南に清水門あり。南は多濃武の沢等の水田に臨み、眺望の好き要害地たり。清水町(現今)の北あたりに田廓門あり。田廓の内に(東南)八幡社天満宮及三芳野天神社の別当たる高松院(三芳山広福寺)あり。城主の祈願所なり。此の北に大蔵あり。各廓の間を巡流する水堀あり。空堀土塁もあり。以て軍備のおさヽ怠りなかりしを察すべきなり。
此の外に城外と雖も、軍備上より一般民の居住を許さゞりし土地ありし如し。小仙波尾崎の台の如きはそれならん。今は旧城の概要のみ記しおけり。
城地
西大手門前三ヶ月堀道 | 百三十五歩九分二厘 |
西大手門御城内道(中門ニ至ル) | 五百四十三歩二分一厘 |
外曲輪南側侍尾敷 | 六千三百十九歩余 |
同上北側屋敷 | 五千九歩二分七厘余 |
水堀 | |
道(中門ノ曲) | 二百三十四歩八厘余 |
右道南侍屋敷(水堀際) | 四百十八歩七厘余 |
中門北側侍屋敷 | 千四百十五歩二厘余 |
八幡曲輪会所前 | 二千二百三十九歩五分余(道芝共) |
同上会所 | 千八百四十七歩一分余 |
郡代所南侍屋敷(尋高校の所) | 三千二百六十六分余 |
南ノ大手総坪 | 八千七百六十七歩九部六厘余(三ノ廓外総坪) |
南ノ大手前 | 二百七歩一分七厘 |
三ノ丸(三ノ廓)総坪 | 五千九百七十歩(馬場共) |
ニノ丸同上 | 二千七十四歩八分五厘余 |
田廓総坪 | 五千十二歩三分九厘 |
内、高松院祈願所 | 八百九十一歩八分二厘 |
新曲輪馬場共 | 三千四百二十五歩八分五厘余 |
本丸馬場共総坪 | 八千二十五歩三分九厘 |
本丸ノ内本城(鉄砲蔵小土居ノ内) | 五千六百二十四歩七分余 |
天神脇小土居敷空堀共(初音曲輪) | 千六百三十歩余 |
天神社中(三芳野天神) | 七百六十九歩六分六厘 |
外ニ水堀土居 |
旧城の概要及前記の河越城地の各総坪歩数は、寛永時代(伊豆侯)修築後の絵図面に依り、後世書入れをなしたる、川越城図の寫に依りしなれば、多少数字の誤りあるやも知れず。併し乍ら城内に関する史料乏しきまゝ、参考資料としてこゝに登載す。尚此等の事に関しては後人の研究を待つ。
多濃武の雁
「凡城中曲輸の縄張、土居、堀の得失、虎口櫓の損益は城取の秘事にてむさと記しかたし」とあり。多濃武の雁(本)著者は秋元侯の家老太陽寺盛胤にして、当時秘事として容易に窺知しがたかりしを述べしなり。
城趾の現状
河越城も明治維新廃藩置県の後は漸次荒廃し、其の一部は官衙学校等の用地となりたれば、最近迄は其の旧観を保つを得たる旧趾もありしが、年を経るに従ひて漸次其の面彫を失へり。殊に城廓の大部分は民有地となりし為に土塁は開墾され、畑、となり、水堀は田と化し、千古の史を飾りし老樹は倒され、宏壮なりし建造物、櫓等皆其の跡を絶ち、幾多の変遷ありて殆んど昔日の壮観を失へり。望嶽台(富十見櫓趾)に登りて四囲を願望すれば、転た感慨無量、懐古の情禁じ難きものあり。
都市の発展上、住宅地の必要上寔にやひを得ざるも、吾川越城の如きは、天下の名城として史蹟保存上に留意して、早くも施為割策すべかりしを、遂に其の事なく、近時市の発展に件ひて俗化して、殆んど其の旧観を失ひたりしは洵に痛嘆に堪へず。唯幸にして、本九の一部は尚現存して、かつて入間郡公会所たりしが、今は市の所有となりをれり。建造物は弘化三年上棟せしものにして松平大和守斉与侯在城当時の館なり。此の城蹟は埼玉県史蹟保存指定となりをれり。寔に城趾として由緒ある建造物たり。
川越城蹟の栄誉
川越城蹟にある県立川越中学校は大正元年十一月、武蔵野に於て陸軍特別大演習挙行せらるゝや、畏くも大正天皇の大本営として行在所に充てられたり。市内新宿雀ノ森には当時の御野立所あり。共に光栄を千戴に誇るに足れり。