on
川越藩歴代城主の沿革
川越藩歴代城主の沿革
天正十八年小田原北条氏の大敗後、川越城を酒井河内守重忠(前城地三州西尾)に賜ひ領高一万石、 城主たること十一年、慶長六年三月三万三千石となりて上州厩橋に国替となる。 慶長十四年九月駿州田中城主酒井備守後忠利(前城主の弟)を川越城主となす。 移封三万七千石、忠利老中となり、国政に参与し累進す。
城主たること八年、忠利卒して子忠勝嗣ぎ、忍城より移り八万石を食み大老となる。功績をあげ十万石となりて、寛永十一年七月、若州小浜に移り、城主たること八年、此の年城代相馬虎之助、同十二年三月三万五千石を以て堀田加賀守正盛城主となりしが、三年にして同十五年封土を信州松本に移され、六万五千石となる。同年城番水谷伊勢二郎を置く。同十六年一月老中松平伊豆守信綱(智慧伊豆)天草の乱鎮定の功を以て武州忍城より倍加増六万石にて川越城主となり、後累進七万五千石となる。信綱以降三代五十六年間、川越城主として藩政大に振ふ。寛文二年信綱の子、甲斐守輝綱、その遺領を継ぐ。同十一年十二月輝綱卒して更に其の子伊豆守信輝嗣ぎたりしが、元禄七年正月下総国古河に移封となる。同年正月七日柳沢出羽守保明御側用人より累進増封ありて川越城主となり、七万二千三十石を食む。後老中となり松平美濃守吉保と称す。川越領の開拓土木事業等に治績多し。川越城主たること十一年宝永元年甲府に移封十万石となる。
同年十二月甲州谷村の城主秋元但馬守喬知(旧摂津守)川越城主となり五万石を食み、老中に累進して更に一万石加増六万石となる。以求秋元氏城主たること四代六十四年の長きに亘り、藩内の殖産事業に治績を挙ぐ。正徳四年伊賀守喬房先代の遺領を継ぎ城主となり、元文三年但馬守喬求又それを継承し、寛保二年摂津守涼朝川越城主となり、老中を勤む。明和四年出羽山形に移封となる。同年前橋城主にして五家門の一たる松平大和守朝矩川越城を賜る(前城地をも領有)。爾来川越を領有すること七代九十九年にして明和四年より慶応年間迄の久しきに亘りて、川越城の治を司る歴代城主中年限最も長し〇文久の年前橋に再び移封(所替)となりしも、尚川越の藩政を後の城主の来る迄とりたりしが如し。明和五年朝矩卒して子直恒遺領(十五万石)を継承して代々大和守と称す。文化七年卒して其の子直温継いて城主となり、同十三年卒す。其の弟矩典遺領十五万石を継承して大和守斉典と称す。英主にして海防に功あり。又藩内に学校を創立し博喩堂と称して藩の子弟をして学ばしむ。日本外史を出版して世に広むる等其の功枚挙に遑あらす。嘉永三年卒して其の子誠丸(後に典則と称す)父の遺領を継ぎて城主たること三年、退隠して水戸烈公(徳川斉昭)の八男、八郎丸養子となり、松平大和守直候と称して川越城主となる。文久元年直候卒し、又有馬玄蕃頭頼徳(久留米藩主)の第十三子富之丞養子となり、文久元年川越城主となる。松平大和守直克と称し、遺領を襲ぎ、幕府の総裁職となり、前橋城に所替となる。松平周防守康英(旧石見守)奥州棚倉城より転じて川越城主となる。慶応二年十月移封を命ぜられ、翌三年正月川越に移る。領高八万四百石、老中を勤め、遣答使となりて外国に赴き、外交上に功績を挙ぐ。明治元年養子松平康載(周防守)父の所領を継ぎ、同二年版籍を奉還し、川越藩知事となり、華族に列せらる。同四年七月廃藩置県に際し本官を免ぜらる。
追記
「松平大和守斉典侯の時、将軍家斉公(御子)廿四男たる松平大蔵太輔斉有を養子として、川越城より出羽国庄内へ天保十二年十二月所替被仰付しも(二百石、加増)翌十三年七月所替は中止となる。同年四月に斉有逝去す。庄内にて酒井侯領民の所替に対し反対の陳情ある等猛運動ありしといふ。」
川越藩は明治四年七月廃藩置県の事あるや川越県と称せしが、同年十一月入間県となり、同六年六月入間県を廃し、熊谷県となり、同九年八月、熊谷県廃せられ、其の管轄区域を埼玉県に併せられ、以て今日に至れり。