城下町としての川越

城下町としての川越

長禄元年鎌倉管領、扇谷上杉持朝の本城として、太田道真及道灌父子の川越築城となりて、以後川越は 城廓を中心として城下町の成立を見るに至れり。

其の頃は軍事上には枢要なる地として重きをなせるも、農商工上にありては極めて幼稚なる城下町なもしか、按ずるに川越は交通上河等の外に、特筆すべき地勢上の天恵なく、而かのみならず国道の要路に遠ざかり、単に武蔵野の平野城として、自然の水田、丘陵を利用して、古河城に対して築城をせしもの、従ひて商業上物資の需用供給が城地を中心として発展したりしが如し。然れども当時兵禍の為め此等の事に関する史料のなきを誠に遺憾とす。

川越夜軍で河越市街が戦火により一たびは焦土と化し、其の後小田原北条氏治政の下に四十五年間(天 文十五年より天正十八年迄)、城将たる北条綱成(始メ福島氏)及び大導寺駿河守政繁、直繁等相継きてよく此の地方を治めて領内の社寺仏閣の復興を謀りしより、市街も大に発達したりしが如し。

入間郡誌ニ曰ク「北条氏治下の入間郡」

斯の如く辺境には攻争頻りに行はれしも、郡内の地方は天文十五年以来殆んど確実に北条氏の手に保有せられ、庶民太平の善政に頗る繁栄に向はんとしたるものゝ如し。即ち川越城は大導寺駿河守に保有せられ、川越城下町も発達し、柳瀬村城には瀧山城主北条氏照の麾下太田氏あり、柳瀬川附近の地漸く発展に向へり。其の他北条役帳によれば、郡内至る所何れも北条麾下の将士に知行されたりしを知る。当時入東郡、入西郡の目あり。蓋し入間を二分せし也。而して知行高は貫文を以てあらはせり。」

既記の如く、当時川越は城下町として発達をし、寺院には大導寺氏が創建せる蓮馨寺広済寺等あり。抑々川越の社寺の復興について、当時城主の関係を受けざるもの殆んど少く、而して善政に隨つて豪農豪商等も出で来れり。本宿(本町)に加茂下氏、榎本氏、陌長に次原氏あり。城下町商人も各地より相当集りて近江屋、丹波屋などゝ国名を家号となすもの多く、次第に繁昌せり。此の時代(北条氏)は川越の商工発達史の上より注目すべき時期なりとす。

徳川時代、元禄の郷帳に川越町(城下町分)石高が一、千四百四十四石四斗と記せり。(郷分は除く)而して城下町商人の繁栄に伴ひて市の設も出来、領民の取引も大に発展せり。

三芳野名所図絵に
「河越市之事 毎月九斉 二六九之日也
河越の市は元亀、天正の頃よりありて、市を九さいに定めたるは正保、慶安の頃と云ひ伝ふ。本町、北町、高沢町、南町、江戸町と順番也。連雀の見世は、昔より加茂下氏より割渡し、見せ賃も加茂下氏へ納む。」

同書は享和年中の著書にして、尚別項に本市松江町の市に就て「毎月四の日なれども近年は(五月四日十二月廿四日)両度也」云々とあり。此の書(図絵)の市に就て甫めを元亀、天正の頃と記せるは注目すべきなり。

武州文書、天正十九年に(れんしやく町)新宿の衆へ諸役ゆるし消火の注意をせし文書あり。当時浦和、熊谷、松山等にも市に関する古文書あり。川越が城及び屋敷町、城下町郷分と区分が立つて而して城下町として此の頃より封建制度の下に、商業上にも地理的に城地を中心として繁栄せるものゝ如し。

附記 城及城下町(川越十ヶ町)、屋敷町、郷分等

新篇武蔵風土記稿(旧幕時代の調べ)に曰く

城下町。城の西南に建ちつゞけり大抵南北の径り十町半、東西四五町もあるべし。其の内本町、志義町、喜多町、鍛冶町、高沢町、上松江町、南町、多賀町、江戸町、志多町を河越十ヶ町と号し、蓮馨寺、養壽院、行伝寺、妙養寺、四ヶ寺の門前町を四門前と称して、市店軒を連ねたり。其の詳なることは各町の条に記せり」と。

風土記に十ケ町を以て城下町となせるは徳川時代川越城下を上下に二分して、上五ケ町、下五ヶ町となして、行司せし総町十ケ町制度となしたる頃を記せるなり。