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町政時代の川越
町政時代の川越
明治元年八月(維新直後)、支配地及釆地等は凡て之を収容して武蔵県と称しぬ。 領地は二年之を藩と改称し、次で四年七月に愈々廃藩置県となりぬ。 我川越も、始めは川越県と称して藩主知事となりぬ。 同四年十一月には入間県となり、県衙を川越に定めたり、後入間県、群馬県の行政区の複雑せる開係より熊谷県の設置となり、五年大小区制布かれてより、我が川越も熊谷県の下に、南第一大区一小区となりたり。当時は実に地方制に著しき変遷を見たり。
同十二年三月、郡区町村編成法を実施し、従来の大小区の制を廃し、入間郡高麗郡両郡を併せて、入間高麗郡所役を川越町に設けらる。後二十九年四月に至り両郡を一として、入間郡と改めたり。
大小区時代の後には、従来の名主を戸長として選挙し、十七年には、戸長役場を設け議員を出し、町村連合戸長役場等を設けて、戸長、副戸長、収入役等を置き、自治制の端緒大に見はる。
当時戸長役場所在地(現市に関係ある土地) 明治廿年一月現在
- 川越町、松郷、小久保村、寺井村、東明寺村、脇川村。
- 大仙波新田、大仙波村、小仙波村、岸村、新宿村。
明治二十二年四月に至りて、今日の町村制成り、五十二の連合戸長役場は六十二の町村役場となりたり。
備考
当時合併せる町村区域名称を改定し、従来の町村名は大字として、之を存せしめたり。松郷、小久保、寺井等皆然り。今日も大字名は残れり。
連合戸長役場時代、入間郡の町村数二百三十二ヶ町村連合戸長役場三十八ヶ所にして、町村制実施直後の状態は入間郡にて、町、五、村、四四、町村にして単独にて役場を設けたるもの、四三村、組合にて役場を設けたるもの、六ヶ町村、二役場ありたり。町村制施行後多少の変遷ありて、入間郡は一市六十二ヶ町村となりたり。郡制施行当初、川越町の戸数三、三二二。同人口一九、〇二六。而して郡会議員を郡より選挙すべき定員、始めは二人、明治三十二年郡剌改正により三人となる。郡制廃止に至る迄、川越より選出せる郡会議艮は左の如し。
入間郡会議員
明治二十九年
九月一日選挙 | 川越市大字小仙波一五番地 | 岩沢虎吉 |
川越町大字川越九百五十六番 | 地綾部惣兵衛 |
同上
九月十日大地主互選 | 川越市大字川越四百十九番地 | 沼田治兵衛 |
明治三十二年
九月三十日 | 川越町大字川越百九十八番地 | 山内庫之助 |
川越町大字川越三十一番地 | 岡田宗 | |
再選 | 岩沢虎吉 |
明治三十六年
九月三十日再選 | 岡田宗 | |
同上新 | 川越町大字川越三百二十一番地 | 喜多欽一郎 |
同上 | 川越町大字松郷三十四番地 | 高橋幸助 |
明治三十八年
九月二十日補欠 | 山内庫之助 |
明治三十九年
十二月五日補欠 | 川越町大字川越百十七番地 | 山崎覚太郎 |
川越町大字川越千六番地 | 石井愛次郎 |
明治四十年
九月三十日 | 川越町大字川越千三番地 | 横田準之助 |
同 | 喜多欽一郎 |
明治四十四年
九月三十日 | 川越町大字川越四百八十一番地 | 綾部喜右衝門 |
同 | 石井愛次郎 | |
同 | 川越町大字川越四百十二番地 | 小峰金八郎 |
大正四年
九月三十日 | 川越町大字川越四百八十一番地 | 佐藤新吾 |
同 | 川越町大字川越八百三十七番地 | 佐々木駒太郎 |
同再 | 小峰金八郎 |
大正八年
九月三十日 | 川越町大字東明寺二十九番地 | 矢沢四郎右衛門 |
同 | 川越町大字脇田十番地 | 林友平 |
同 | 川越町大字川越千八百十六番地 | 渡辺竹次郎 |
以上が郡会議員にして、大正十一年十二月一日川越町市制施行に付、町選出の議員は解職となれり。
衆議員議員の選出は川越は第一区の地域にして、先に高田早苗氏を選出したり。粕谷義三氏も第一区選出の議員たり。而して川越在住の人としては、故綾部惣兵衛氏明治四十一年五月十日当選して以来つゞきて議員となりたり。
県会議員は故人になりしが、当町の人としては、竹谷兼吉氏、綾部惣兵衛氏、石井愛次郎氏、喜多欽一郎氏等議員に選出せられたり。
市制施行後本市は一選挙区として議員一名を配当せられ、第一回の議員石川仁平氏、第二回議員山内庫之助氏、第三回議員染谷清四郎氏選出せらる。
川越の町制時代は明治維新後に於ける我が国文明の最も著しく進歩改革せし時なれば、従つて旧城下町としての川越が、商工業を中心とせる川越となり、地方及四囲農村の発達に件ひて茲に其の面目を一新せり。商工業上唯一の交通機関として、明治廿八年三月、川越鉄道(西武線)創設され、中央線との連絡をとり、又明治三十九年四月には、荒川を横断して、中仙道大宮に至る川越電車の創立を見るに至れり。東上鉄道は明治四十四年十一月の創設にして、始めは池袋、川越間なりしも、現今は寄居に至り、秩父線との連絡の便をとるに至れり。此の外市外各地皆馬車或は自働車等の便あり。これより先に水運の便を計りたるあり。仙波河岸の開堀これなり。鉄道運輸の利便なき当時としては川越の商品の多くは、この水運を利用せり。此の事業は主として、綾部利右衛門氏の経営する所たり。仙波河岸は新河岸川に通ずる開堀にして、幕末の頃迄は、扇河岸舟楫の発着起点なりしかば、川越方面の不便実に多かりしを以て、明治十二三年の頃、始めて大仙波の原氏開盤の事に従ひ、次で川越の沼田治兵衛氏、染谷平六氏、吉田関太郎氏、綾部利右衛門氏等茲に資を校じて運河を開堀し、新河岸川に通ずる水運を利用するに至れり。其の後変遷ありて、廻漕店は綾部氏の経営となれりと云ふ。交通の発展に伴ひて、商工業者の隆昌を来し、茲に各会社及各工場、各組合等増加し、総説に記載せるが如き数となれり。茲に川越商業会議所、或は各市場取引所、商工会等の機関も備りて、町制の殷盛を見るに至れり。