on
仙波の概要
仙波の概要
仙波は川越市の南部にして、大正十一年十二月一日川越町と合併して、川越市となる。 市制施行前は仙波村と称し、当時大仙波、大仙波新田、岸、新宿の四大字より成れり。 東は水田にして古谷、南古谷二村に接し、西は高台にして、太田村に隣し、南は高階、福原の二村に連る。 東上線は中央を横断して所沢街道に西町駅あり。東京街道は川越通町より南に走れり。南端に御代橋あり。窪の川、不老川は此の南境を流る。九十川は東に流れ仙波河岸川及諸川と合し新河岸川に入る。仙波河岸は近年の開堀にして舟運の便あり。仙波方面は市制施行後道路新設せられ、従ひて住宅地として頗る発展するに至れり。
加ふるに近時耕地整理法による都市計画道路の完成を見たり。将来更に著しき発展を見るならん。実に村制当時大半畑地なりし処も今や人家軒を並ぶるに至りしなり。
合併前の戸数は次の如し。
川越 | 仙波 | |
人口 | 二六、七四一二 | 二、一三五 |
戸数 | 五、一一九 | 三三五 |
現今は、菅原町、岸町、仙波町、新宿町の四区に分ち、市役所出張所及組合事務所等は旧役場の建物を用ふ。学校は仙波校を川越第三尋常小学校と改称せり。共に菅原町にあり。仙波地方の社寺の重なるものを挙ぐれば、天台宗に長徳寺、天然寺、妙善寺あり。曹洞宗に長田寺あり。新宿には大日堂あり(此の西方に寺屋敷と云ふ所あり。善仲寺跡と称す)。
神社には、大仙波に氷川神社、愛宕神社、富士浅間社、厳社、稲荷社等あり。浅間社は毎年七月十三日初山とて祭典ありていと賑し。岸町善知鳥坂(うとう坂)の上に熊野神社あり。新宿の雀ノ森に氷川神社あり。社の西に大正元年の陸軍特別大演習の際に於ける大正天皇の御野立所を設けし所あり。眺望頗る佳なり。菅原町に天神社あり。境内に開郷の碑あり。又此の附近に六郷稲荷社ありしも近年取崩して合祀せり。
沿革。郡誌に委しければ今それに依る。
入間郡誌に
仙波村は大字大仙波を以て古しとなす。保元の頃既に仙波氏あり。成は中古山田郷の中心地も此の辺なりしと云ふ。其の後小田原時代と覚しき頃より、漸次他の大字も開け、江戸時代に及んで殆んど今日の体裁をなすに至れり。(中略)大仙波には古墳の跡と覚しきものあり。氷川神社境内にも現に二三を存し、愛宕神社及浅間神社の社地の如きも亦大なる円形の古墳なりしに似たり。(中略)抑も大仙波は川越町の小仙波と元一村にして、喜多院、中院等と離るべからず。其の大小の別を設けしが如きは後世の事なるに似たり。仙芳仙人の伝説は今改めて述べず。保元物語に仙波七郎高家なる人見え、仙波家系図には仙波七郎家信と記されあり、又少しく降て東鑑に仙波平太、仙波太郎、同次郎、同弥三郎、同左衛門尉など出でたる、何れも在名を以て氏とせしなるべく、村の旧きを知らる。更に降て北条役帳には関弥次郎仙波の内沼野五貫文云々とあり、或は永享記に長禄元年太田道真、上杉持朝の命を受けて仙波にありし城を引移して今の川越の地に築造せしこと見ゆ。此の仙波の城は或は何等かの誤なるべしと勘考せらるれど、要するに地方豪傑の居所たるに於て、決して不相当の処にあらざりしが如し。又旧山田郷の宿跡は、村の西方今の大仙波新田裏の辺にありしと覚しく、其の辺より礎石瓦の類を堀出すること少からず。百年前は古井の跡も存せしと云ふ。江戸時代に入りては其の一部川越領たりしと共に、他は喜多院東照宮の神領として、不可侵の権威を有したりき。而して中古未だ開発せられざりし地は、徳川初期に於て墾拓せられしと覚ゆ。(以上)
既記郡誌にある通り、仙波は古き歴史を有する土地にして、地名、古名、通称、遺跡等によりても想察せらる。大仙波地内堀ノ内、或は其の北方オーカメ山辺は、相当豪族の館ありし遺蹟ならんか。又新宿に城見塚り地名あり。永享記に仙波の城云々とあり。されば猶研究を要するものある如し。大日堂の西方、寺屋敷及雀ノ森附近は天文年中の激戦地にして、寺屋敷等の地名よく之れを物語る。雀ノ森附近は今日猶軍隊の演習地として利用せらる。
仙波村合併当時之職員
村長 | 栗原登喜蔵 |
助役 | 斉藤茂吉 |
収入役 | 山崎善太郎 |
村会議員 | |
二級 | |
栗原伊与蔵 | |
沼田文次郎 | |
金子弥三郎 | |
洒井弥太郎 | |
死亡退職 | |
山口久治 | |
福岡寛次郎 | |
一級 | |
小池助太郎 | |
市川繁五郎 | |
小倉元右衛門 | |
船津長喜 | |
対崎長太郎 | |
石原久五郎 |