川越地誌 | 参考資料

参考資料 川越地誌

参考資料として、新井政毅編纂の地誌(旧川越町)を登載す。 右は現在の状況区域とは異なり、当時の川越町旧城下町は第一大区一小区に編入されをり、 明沿四年入間県の行政区分法によりて一円を管轄せしが、 後熊谷県の所轄となりし明治九年一月調の状況により、区長横田五郎兵術(政徳)監督の下に書記新井政毅氏の編纂せるものにして区制時代唯一の史料なり。

唯第一大区一小区(川越)のみの記録にして、松郷(郷分)寺井、小久保、東明寺、脇田、等各大字及び小仙波、仙波村等については合併前のことゝて、記載なきは洵に遺憾なり。

川越地誌抜粋(川越町、第一大区、一小区)明沿九年一月調(城下町沿革略)

河越市

元亀天正ノ頃ヨリ始レリ。毎月二六九ノ日ヲ市ニ定メタルハ正保慶安ノ頃ナリ。本町、北町、高沢町、南町、江戸町卜順番ナリ。連雀店肆等ナセシカ当事ハ其事ナシ。

彊域

東ハ松郷、伊佐沼村、鴨田村ニテ、西ハ今成村、野田村、小久保村ニ隣リ、南ハ脇田村、新宿村、大仙波新田、小仙波村ニ接シ、北ハ東明寺村、寺井村、向小久保村ヘ混淆断続シツ、接ス。

幅員 

東西十六丁四十間、南北八丁四十間、但飛地ハイラス面積実測ヲヘズ暫ク欠ク

管轄沿革

永禄天文ノ頃ハ小田原北条家ノ領ニシテ、北条上総介綱成、北条阿波守、其後大導寺駿河守政繁、同駿河守直宗ナリシカ、天正十八年庚寅八月北条家滅ヒテ関東一円徳川氏ノ有トナルトキ、酒井河内守重忠ヘ一万石ニテ川越城ヲ賜フ、慶長六年丑四月上州厩橋ヘ移ル、舎弟酒井備後守忠利ニ賜フ。寛永十一年若狭小浜ヘ遷ル。相馬虎之助川越城代トナル。寛永十二年堀田加賀守正盛ニ賜フ。同十五年信州松本ヘ所替ス。是ヨリ水谷伊勢守城代トナル。寛永十五年松平伊豆守信綱ノ領トナル。同甲斐守輝綱同伊豆守信輝元禄七年下総古河ヘ遷ル。同七年戌三月ヨリ松平美濃守吉保ノ領地トナル。宝永二年甲府ヘ移ル。同年二月ヨリ秋元但馬守喬朝、同喬房、同喬求、同凉朝迄四代相続シ、明和五年出羽山形ヘ移ル。同年 子三月ヨリ松平大和守朝矩ノ領トナル。同直恒、同直温、同斉典、同誠丸、同大和守直侯、同直克迄七代相続シ、慶応三丁卯年上野前橋ヘ移ル。同年ヨリ松平周防守康英、同周防守康載領地トナル。維新之際廃城トナル。明治四辛未年十一月入間県庁ヲ置カル。同六年癸酉六月熊谷県ノ所轄トナル。

里程

熊谷県庁ヨリ 七里五丁
東ノ方鴨田村ヘ三十丁 松郷へ十丁
西ノ方今成村ヘ十丁 野田村ヘ十二丁
小仙波村ヘ十二丁 北向小久保村ヘ七丁
東明寺村ヘ三丁 寺井村ヘ三丁
(但シ面積実測ヲヘス暫ク欠ク)

近傍宿町

北ノ方比企郡松山町ヘ四里五十二間
南ノ方本郡大井町ヘ二里十一丁四十三間
東南ノ方新河岸ヘ一里十一丁十三間三尺
西ノ方扇町谷村へ三里十八丁三十七間三尺
西ノ方越生村へ四里三十二丁四十間三尺

地勢

東ノ方川越城墟平衍ニシテ、後ノ方三面深田小溝ニテ十丁余隔テ伊佐沼アリ、南ハ田圃小河アリ。小仙波村へ接シ又平原曠野モアリ。中央ハ市街商買列肆櫛比ス、社寺及ヒ士族邸、農民宅混淆セリ。西北ノ方赤間川ノ流ヲ帯ヒ、地窪ク舟筏便ナラス四方通路凡七ケ所ニテ車馬ノ便利最モヨロシ。

地味

市街ハ共ノ色赤壌ニテ山土也。耕地ハ白壌、黄壌自埴、黄埴、黒埴、墳土モ交々稲梁ニ適ヘリ。飛地字中台ニ至ツテハ其ノ色黒赤灰白混淆ノ腐壌ニシテ薄痩ノ地也。小麦ニ応ス。

税地

田 十九町八反八畝廿九歩三合社寺上知共
畑 百四町四反二歩五合社寺上知共

宅地

十四万八千六百四八十四坪五合 此反反四十九町五反六畝四歩五合士族沽券地
総計 二百九十七町五反七畝十三歩八合

飛地

川越町ヨリ東南ノ方凡一里程隔

字中台 第一番 東西百五間
南北百五十間
第二番 東西六十間
南北七百七十間
同切地 第三番 未申ノ方東西十五間
大塚村界南北二十間
同切地 第四番 申酉ノ方東西六十五間
大塚村大塚新田界南北七十問
同切地 第五番 未ノ方東西百五間
中福村界南北廿五間
同切地 第六番 辰巳ノ方東西廿間
今福村界南北百五間
同切地 第七番 砂新田界東西七間三尺
南北廿間
同切地 第八番 卯ノ方東西十二間
砂新用藤馬村界三尺南北七間
同切地 第九番 寅ノ方東西八間
砂新田藤馬村南北十三間

字地

川越町元標 本町 高沢町
南町 北町
東西南北ノ四巷ニアリ
元標ノ東ニアリ 字 本町 東西百五十間
南北七十七間
本町ノ北東ニアリ 字 宮下(ミヤノシタ)町 東西二百九十二間
南北二百廿間
本町ノ東ニアリ 字郭(クルワ)町 東西三百五十七間
南北二百四十間
本町ノ南北ニアリ 字 江戸町 東西六十間三尺
南北百五十間
本町ノ南ニアリ 字 多賀町 東西六十間三尺
南北百三十六間
江戸町ノ南ニアリ 字 上松江町 東西百四十四間
南北百十五間三尺
上松江町ノ北端ヨリ東ニアリ 字 北久保町 東西百四十間
南北九十四間三尺
上松江町ノ南端ヨリ東ニアリ 字 南久保町 東西百三十五間
南北八十六間
南北久保町ノ東ニアリ 字 堅久保町 東西六十八間
南北百廿一間
堅久保町ノ東ニアリ 字 清水町 東西六十九間
南北百十六間
上松江町ノ南ニ位ス
松郷松江町ヲ隔
字 通町 東西五十九間
南北四百八十間
通町ノ北咄ヨリ西ニ位ス 字 横新田町 東西五十二間三尺
南北九十八間
通町ノ南端ヨリ西ニ位ス 字 一番町 東西百廿二間
南北廿六間
字 ニ番町 東西百四十間
南北廿五間三尺
字 三番町 東西百五十五間
南北
元標ノ南ニアリ字 南町 東西八十五間
南北百五十間
南町ノ南ニアリ 字 鍛冶町 東西八十五間
南北百五十間
鍛冶町ノ南ニアリ 字 鴫(シキ)町 東西二百九十間
南北五十九間
鴫町ノ中央ヨリ南ニ位ス
脇田村字猪鼻町
松郷連雀町ヲ隔
字 新田(シンデン)町 東西九十二間
南北二百十間
新田町ノ南ニアリ 字 西町 東西八十二間
南北百九十九間
鴫町ノ西端ヨリ南ニ位ス
松郷大工町ヲ隔
字 大工町 東西六十九間
南北百〇六間
大工町ノ南ニアリ 字 中原町 東西八十四間
南北七十四間
中原町ノ東ニアリ 字 瀬尾町 東西六十間
南北七十五間
鴫町ノ西ニアリ 字 橘町 東西五十四間
南北九十四間三尺
橘町ノ西南ニアリ 字 六軒町 東西八十
問南北三十一間三尺
橘町ノ西ニアリ 字 五反町 東西三十九間三尺
南北五十間
橘町鴫町ノ北ニアリ 字 行養町 東西百六十七間
南北百七十五間
行養町ノ西ニアリ 字 鷹部屋町 東西百廿間
南北四十九間三尺
行養町ノ北ニアリ 字 厩下町 東西四十五間
南北九十三間
元標ノ北ニアリ 字北町 東西八十六間
南北百九十二間
北町ノ中央ヨリ西ニアリ 字 坂上(サカウエ)町 東西四十五間
南北九十三間
北町ノ北端ヨリ西ニアリ 字 坂下町 東西百〇三間
南北五十六間
北町ノ北ニアリ 字下町 東西八十間
南北百六十五間
下町ノ北ニアリ犬牙駁雑地 字 神明町 東側
 東西五十間、南北十五間
〇切地東側東西三十八間、南北三十五間
〇切地同側東西三十六間、南北三十五間
叉同側切地東西廿一間三尺、南北四十七間〇
西側 
南北三十五間、東西廿七間
〇叉切地西側東西廿二間、南北廿間
〇叉切地南北十二間、東西十五間
〇叉切地南北十一間三尺東西廿六間。
神明町ノ東ニアリ犬牙駁雑地也 字 宮元町 切地西側東西十間
南北廿七間東西三十六間
南北七十間三尺
元標ノ西ニ位ス 字 高沢町 東西百三十間南北百十五間
高沢町ノ西ニアリ 字 石原町 東西六十四間 南北廿三間
切地南北四十間三尺 北ノ方東西三十間

耕地字

石原町ノ西ニアリ 字高沢(タカサワ)畦(マチ) 東西八十一間南北四百九十一間
南ノ方今成村界西ノ方宿粒村界
高沢畦ノ北ニアリ 字雀宮(スゝメノミヤ)畦(マチ) 東西百〇八間南北二百六十三間
雀宮畦ノ北ニアリ 字 反(ソリ)畦(マチ) 東西三百間南北二百五十七間
反畦ノ東ニアリ 字深畦 東西二百五十間南北五百十二間
深畦ノ東ニアリ 宇御成道畦 東西四百八十間南北百四十六間
御成道畦ノ東南ニアリ 字貳町畦 東西五百三十間南北百九十二間
貳町畦ノ東端ヨリ北ニアリ 字馬喰町 東西三百廿五間南北百十二間
馬喰町ノ北ニアリ 字柳橋畦 東西百七十九間南北二百間
柳橋畦ノ西北ニ当リ
北田島村内ヘノ飛地也
字味噌田畦 東西百三十七間南北四十二間
  叉東ノ方切地 東西三十九間南北六十六間
柳橋畦馬喰町ノ東ニ有赤間川ヲ隔 字吹(フク)張(ハリ)畦(マチ) 東西三百八十六間
南北百三十三間
吹張畦ノ南ニアリ 字城下町 東西六百間南北二百廿間
城下畦ノ北ニアリ 字寺井溝畦 東西四百廿間
南北百七十五間
吹張畦ノ西ニアリ 字宮下(ミヤノシタ)畦(マチ) 東西百四十五間
南北百七十四間

貢租

地租 米五百三十五石九斗六升七合
金百八十六円九十四銭六厘、米二石一斗六升三公
社寺上知金十二円六十五銭六厘
社寺上知、金七十七円廿六銭七厘三毛
百分ノ一割地租
士族邸宅沽券税金二円三十一銭八厘四毛
右慶費金
総計 五百三十八石一斗三升金二百七十九円十八銭七厘七毛
賦金 金百廿五円
人力車百十二輛但シ内二人乗四輛アリ金百三十円五十銭
荷車二百六十一輛
金二百〇三円九十八銭
醸造酒税金百四十七円七十銭
煙草税金百〇四円四十五銭
話興行税金千百五十九円廿銭
藝妓酌女税金一円五十円
水車税金二円廿七銭
船一艘高沢町戸田与八
総計 金千八百七十四円六十銭 但シ明治八年分

戸数

本籍 千九百七十九戸(内千四百四十四戸家持、五百三十五戸借家)。
寄留 四十三戸
七戸(県社一座、郷社一座、村社一座、雑社四座)。
十二戸(浄土宗二戸、日蓮宗二戸、曹澗宗、四戸、時宗一戸、真宗二戸)。
総計 二千〇四十一戸 但シ明治九年一月一日調

人数

四千二百口  
千九百十九日 士族
  二千二百八十一口 平民
四千二百六十日  
千九百三十五口 士族
  二千三百廿五口 平民
総計 八千四百六十口 但シ明治九年一月一日調  

牛馬

牡馬 十頭

舟車

一艘 高沢町 戸田与八持
荷車 二百六十一輛 人力車百十二輛(内二人乗四輛アリ)。

赤間川

氷源ハ西ノ方小ケ谷村字モ、ノ井堰ヨリ入間川ノ氷ヲヒキイレ流末ハ東ノ方伊佐沼村ニ落ル氷深三尺五寸ヨリ凡五尺位迄 川幅五間長九百五十問川幅三間三尺長千四百三十二間 長サ合二千三百八十二間也 架橋ハ高沢橋東明寺橋田谷橋等ナリ舟筏便ナラス。

道路

掲示場

字本町第一大区一小区事務所ノ前ニアリ

元標

川越市街中央四巷ニアリ字本町、字南町、字北町字高沢町ノ辻ニアリ。但シ東京日本橋ニ同シ四方通路コレヲ割出シトス。南ハ東京往還道ニシテ、北ハ松山町熊谷駅ヘノ道也。西ハ秩父小川往還道ニテ、東ハ中仙道上尾宿、桶川宿、鴻巣宿ノ往還道ナリ。其ノ町々川曲緩急、道幅大小混同、長短モ他村入寮リ、断続混淆ス、故ニ暫ク欠ク。

三芳野天神社

県社字郭町ニアリ東西十七間三尺南北五十三間三尺、面積境内三反一畝廿七歩、勧請社説天同二年云々祭神素盞雄命、稲田姫命相殿在原業平霊、菅原道真霊。
祭日四月廿四日、廿五日、社説詳細ハ三芳野天神縁起アリ故ニ略之。

氷川社

郷社字宮下町東西廿一間二尺南北三十五間
面積境内二反五畝十二歩、祭神健速須佐之男命相殿奇稲田姫命、足名椎命、手名椎命、勣請欽明天皇八年九月十五日也ト云々。
祭日六月九月十四日、十五日。
太田持資慕京集ニ氷川社奉納和歌
老らくの身をつみてこそ
武蔵野の草にいつ迄残る自雪

八雲神社

村社字中台一東西廿一間、南北十四間三尺、面積一反〇七歩、税地ナリ祭神素盞雄命、勧請年代未詳 祭日六月十五日。

六塚(ムツツカ)稲荷社

雑社字高沢町、東西十一間、南北十二間三尺、面積四畝十七歩、祭神倉稲魂命、勧進年代未詳 祭日二月初午日。

烏山(カラスヤマ)稲荷社

雑社字鴫町叉親塚稲荷トモ云フ、東西七問二尺六寸、南北三十三間四尺五寸、面積境内八畝十一歩、祭神倉稲魂命、素盞雄命、誉田別命、天児屋根命、猿田彦命、合五桂、勧請年代未詳 祭日二月初午口四月一日。
社説曰長禄元年丁丑ノ頃太田道真川越城ヲ築ク時櫓ノ地形ヲ定メ先櫓ノ高サニ足代ヲカケ道真之ニ登リテ四方ヲ望ムニ西南ノ方ニ繁茂森アリ宮嶽ヲ礎フ、道真人ヲツカハシ彼森ヲ代ラシム此ノ森ノ中ニ石祠アリ内筒守アソ披キミルニ願文アリ
源家勝平、怨敵退散、子孫長栄、天願成就
承安三癸巳天四月十七日 守護願主 河島武盛
コノ願書ヲ携来ヲ道真ニ捧クコレヲ読終リテ曰正シク当城成就ノ吉瑞ナリトテ元ノ所ニ仮宮ヲ建テコノ願書ヲ置カシメ普請成就ノ後文正元年丙戌年四月十七日応仁元年也 此所ニ又道真願文ヲ納ム
武運長久、怨敵退散、請願成耽、子孫繁昌、多民自安、五穀豊穣、別当正国院清順
文正元丙戊年四月十七日願主太田資清入道道真
其ノ後洒井家川越城主ノ時ハ神楽洒肴奉納アリシヨシ

吉塚稲荷社

雑社字南町ニアリ東西九間五尺、南北六間、面積一畝廿九歩、祭神倉稲魂命、勧進文政六年三月、祭日三月十二日

薬師(クスシノ)神社

雑社字多賀町東西八間一尺五寸、南北廿間、面積五畝十七歩、祭神大名持命、少名彦命、勧請年代未詐、祭日一月八日、九月十二日

養壽院(塔中千壽院兼)

字行養町曹洞宗青龍山ト号ス旧朱印地ナリ
東西六十間、南北三十九間一尺、面積境内七反八畝九歩、墓地三反九畝三歩、叉新墓地一反〇一歩、相州高座郡遠藤村宝泉寺末コノ寺往古ハ真言宗ナリシカ中興改宗シテ曹澗宗トナル開基寛元年中川越遠江守平経重(川越太郎重頼ノ子掃部内泰重二男也)
開山守慶天文廿年二月廿八日寂
古鐘アリ銘曰
武蔵国河肥庄 新日吉山王宮、奉鋳推鐘一口長三尺五寸、文応元大歳庚申十一月廿二日、大檀那平
朝臣経重大勧進阿闍梨円慶
コノ鐘寺中山王宮ニアリシカ明治維新之際神仏混淆禁令故ニ山王宮ハ門前稲荷社へ合祭ス
按スルニ東鑑第六曰 文治二年丙午七月大朔丙子廿人日癸卯師中納言奉書到来(京都ヨリ鎌倉源二位殿ヘ)ノ新日吉領武蔵国河越庄地頭対云々。
光西寺 真宗西京本願寺末、養壽院塔中千壽院借寺ナリ天保七丙申年松平周防守石州浜田在城ノ頃其ノ家臣帰依ノモノ有テ本寺ヨリ出張所アリシカ奥州棚倉ヘ移リシトキモトモニ行ケル弘化乙巳二年川越ニ移リ明治癸酉六年松井山ト号シ本山ノ末寺トナル

大蓮寺

浄土宗字高沢町ニアリ東西廿間三尺、南北三十七間、面積二反五畝十二歩、墓地三反二畝廿六歩、松郷蓮馨寺末、開山戚誉天正二甲戌年五月十八日寂

見立寺

浄士宗字高沢町ニアリ東西四十三間四尺南北十六間二尺、面積二反三畝廿三歩、墓地一反二畝廿五歩、松郷蓮馨寺末開山威誉天正二甲戌年五月十人日寂

広斉寺

曹澗宗字喜多町ニアリ青鷹山ト号ス東西五十四間、南北廿七間一尺、面積四反人畝廿人歩、墓地三反七畝廿二歩、武州多摩郡根ケ布村天寧寺末、開山広庵芸長、天文十七年城主大導寺駿河守ナリ

長喜院

曹澗宗字南町ニアリ東西三十五間、南北十三間一尺、面積一反五畝十一歩、墓地一反六畝人歩、喜多町広斉寺末、開山大翁文広、慶長元甲辰年九月二十三日寂、間基冷月長喜、俗名大導寺権内、コレハ駿河守ノ甥ニテ此所ニ住ス、永徳五壬戌年十二月十一日没

法善寺 

真宗字鍛冶町東西三十四間、南北十二間五尺、面積一反四畝十二歩、墓地二反〇十五歩西京東本願寺末、自然山ト号ス
開山良海、天文十人年己酉三月廿五日寂

妙養寺

日蓮宗字橘町東西三十人間二尺、南北四十二間、面積五反三畝廿人歩、墓地一反七畝十四歩甲斐国身延山久遠寺末、蓮信山ト号ス
中奥開山日在、天正三年十二月三日寂、開基蓮信比丘妙養尼

行伝寺 

日蓮宗字南町朝田山ト号ス、東西五十人間五尺、南北十人間一尺、面積三反七畝十人歩墓地二反二畝七歩、武州池上本門寺末
開山日山、永徳元辛酉年人月七日寂

東明寺 

時宗稲荷山称明院ト号ス、宮下町ニアリ東西七十三間五尺、南北九間四尺、面積二反三畝廿九歩、墓地人畝十五ル、和州藤沢浄光寺末、開山遊行真教、正応二年八月廿五日寂

公立小学校 

字鍛冶町ニアリ、鍛冶小学校卜号ス法善寺ヲ仮用フ、生徒百四十三人、但シ男人十三人、女五十八

同 

字北町ニアリ、北小学校卜号ス、広斉寺ヲ仮用フ、生徒百人十七人、但シ男九十五人、女人十二人

同 

字郭町ニアリ、三芳野小学校ト号ス生徒二百七十二人、但シカ二百廿三人、女四十人人

同 

字鴫町烏山稲荷社地ニアリ、志義学校ト号ス、生徒二百〇四人、但シ男九十九人、女百〇五人

同 

字久保町初雁小学校ト号ス、生徒百三十人、但シ男七十八人、女五十二人

第十四番中学本部公立入間川学校

字郭町 生徒 男三十人

事務所 

字本町官有地戸長 戸副 相詰川越町ノ事務ヲ扱フ叉第一大区一小区松郷、寺井村、東明寺村脇田村小久保村共合併シテ担当ス

郵便所

郵便役所 二等ナリ、字江戸町第五番地間口三間奥行二間、但シ税地也

古蹟

三芳野里 

田面の沢 たのむ里 入間の里(共ニ三芳野里ニテ初雁名所也)

養壽院境内本堂坤方古墳二ケ所

河越太郎平重頼及同四郎平経重ノ塚ナリト云伝
神明祠ト稲荷祠ヲ立ツ。明治維新之際神仏混淆禁今故今ハ両祠ヲ取毀チ唯丘ノミ存セリ

大工作場

水車一ケ所 字石原町 渡辺政方持、同一ケ所字坂下町 水村精持、同一ケ所 字宮元町 寺井村水口忠右衛門持

物産

動物 

鶏 八百五十羽、鶏卵 五于百、

植物 

未于百三十八石一斗、大麦 百八十七石九斗二升 小麦 二百九十二石三斗二升、大豆三八三十四石〇八升、小豆 三十一石三斗二升 大角豆 廿六石一斗

器用物

綿操台 三日五于挺 
綿操于 千廿束
箪笥 千九百八十五組
鐘台 五百五十一本

製造物

木綿織手拭地 七万三于五百反
川越地縞 三万千八百五十反
結城縞 二于九百廿八反
糸入縞 二千〇九十反
二子織 千三百五十反

民業

市街ノモノハ商業ヲ専ラトス叉農民及工業ヲカネルモノアリ
商農ノ暇織物ヲ専ラ勤ム

区裁判所 

字郭町第百五十一番司法省御川地、東面三于八間、南北三十二間、面積三反五畝于四歩

警察署 

字本町第八番官有地、東西十九間七歩、南北四于二間〇八歩、面積一反〇八歩一合七勺 明治九年一月調