川越市沿革史概要
序言
川越市沿革史概要 序言 川越の地たる武蔵野形勝の位置を占め帝都輦軌の下に在りて自ら藩屏を為せるの観あり...
目次
目次 一、総説 川越市の位置。...
総説
一、川越市の位置及地勢 川越市は大正十一年十二月一日を以て、 川越町と仙波村きを合併して、...
川越の名称
川越の名称 川越は昔は河肥、又は河越とも書けり。養壽院の鐘銘(文応元年)には立派に「河肥庄」といふ文字を用ふ。東鑑文治二年七月二十八日の條にも此字を用ひあり、河肥は本来の文字なるか、否や応かに断定するを得ず、併し一般史家の説く所は古くは河肥にして、それが河時しか転訛して河越となり、更に川越となりしものなりと、八代博士曰く、河に因って肥された土地、而して河肥荘の中心地は上戸辺にして、入間川及越辺川等流れて、肥沃の土地なりしがためならんと説かる。 一体古い地名は其の言葉、即ち音だけが先にありて、後文字を符牒として当てはめたりしものなれば地名の起原を、漢字の字義で解釈せんとずるのは誤りを生じ易し、今二三郷土資料の各書を参考として左に述ぶ。...
石器時代と古墳時代
石器時代と古墳時代 石器時代の遺物は川越よりも多く発見出土し、現在川越図書館郷土資料室に収蔵せる石器及土器のみにても数千点に及ベり。 此等は主として川越市を中心に、其附近一帯より故安部立郎氏等同志の努力によって蒐集せられたるものにして、近時斯界の研究大に進展し、武蔵野郷土資料として、考古学上重要視さるゝに至れり。...
伊勢物語と三芳野の里
伊勢物語と三芳野の里 川越地方は詩歌によりて彩らる、名勝地少からず万葉集に「伊利磨路乃云々」あり、平安朝初期の「伊勢物語」はよく此の三芳野の里を寫せるを見る。 伊勢物語「昔、男、武蔵国まで徨ひ歩きけり。さて其の国にある女をよばひけり。父はこと人にあはせんといひけるを、母なんあてなる人にも、心つけたりける。父はたゞ人にて母なん藤原なりける。さてなんあてなる人にと思ひける。...
坂東武士
坂東武士 坂東武士の強勇については、已に古今の典籍に載する所、古く奈良朝時代には防人として東国の武人を 探用したりき。...
河越氏
河越氏 鎌倉幕府の雄将として、尚叉坂東八平氏の一として河越氏の一族は、当時高家中最も勢を振ひぬ、殊に河越重頼は、後白河天皇の御領たる河肥之庄の荘官たりし関係にや、鎌倉幕府創立にあたりて、早くより源頼朝の旗下に参じ、同族の畠山重忠等と共に軍功ありて重きをなせり。 河越氏系図...
重頼の子孫
重頼の子孫 重頼の亡後、所領は一旦悉く没収せられしが、其の夫人は頼朝の恩人比企禅尼の女にして、又頼家の乳母たりし関係上、他の五ヶ郷を除き、河肥庄は重頼の妻(後家の尼)に賜りて世々所領となりぬ。 武蔵武士に曰く...
武蔵七党
武蔵七党 横山党。猪俣党。野輿党。村山党。西党。兄玉党。丹党。 由来武蔵は武士道の本源地として、「武相の兵は天下に敵なし」と称され、関東武士の剛勇を賞讃せり。県誌に曰く...